「自」と「他」の境界~「ブッダとは誰か」を読んで~

自分はとある大学で「ブッダ」に関する科目を受講している。

今回レポートの提出があり、文章を作成したので、

ここのブログにも転記しておくことにする。

 

話が「ブッダ」に関することなので、

今回のネタは多少は宗教がかっているかもしれない。

 

① はじめに
 このレポートでは、「ブッダとは誰か」を読み、特に、悟りを開くまでの釈迦牟尼の行動から学び、考えたことについてまとめたい。そしてその中から、自分のこれからの人生にとって有用な知恵を拝借できればと考えている。

 

 人間は言葉を持ち、ものを考えることができる。また人間は文字を持ち、考えたことを時間や空間を超えて他に伝えることが出来る。そして人間は他の考えを吸収し、自分なりに加工・応用して、進化することができる。文化・文明を発展させることもできる。人口減少だの、自然破壊だの、さまざまな問題は、発生し続けると予想できるが、ある部分は人類の叡智を持って解決していくことも可能であろう。また、滅びることが必然であったならば、それもまた、一つの道だったのだろうと考えることも出来るのかもしれない。

 

② 問題の所在・・・自分の生き方の課題
 人間は、いろいろなことを考えることが出来るがゆえに、生老病死に不安になったり、将来のことを思い悩んだりする生き物のようである。せっかく大昔にブッダという方が存在し、さまざまな生きるヒントを残してくれているのなら、それをこの世ではただ1回である(輪廻を考えなければではあるが)自分の生き方の参考とし、より良い人生を歩むための一助とすることは非常に価値があることである。


 自分の今までの人生は、勉強や仕事や趣味等でその時、その時がそれぞれ忙しく、あまり立ち止まって自分を振り返るような機会がなかったような気がする。大きな病気等があれば、その時に振り替える機会もあったのであろうが、あまりそんな機会はなかった。


 今回、新型コロナウィルス感染が広まって、不要不急の外出が制限されたり、テレワークが推奨されたり、また死が今まで以上に身近に感じられたがために、自分の人生を見つめ直す機会を得た人も多かったのではないだろうか。実際問題、「人生100年時代の今、これからどのように生きていくのがよろしいのか?」そこが自分にとっても大きな課題の一つであることは間違いない。

 

ブッダの教えから
 ブッダは、貴族としてカピウラヴァッツの城にいた時は非常に贅沢な暮らしをし、逆に城を出てウルヴェーラーの森で6年間の苦行の実践をするという、いわば両極端な体験を経て、悟りの境地に達し、自分のやるべきことを見いだしたということだと思う。
城にいたときには、父親の後を継いで「国をどうマネジメントしていくか?」と、隣国との関係等も含め、考えることも多かったように思う。また、苦行実践中は、「本当にこんなことだけしてどんな意味があるのだろう?」と考えたに違いない。

 そんな中から、すべての人は階級など関係なく平等であり、それどころかすべての生き物が、結局はある意味ひとつであるというところにたどり着いたのではないかと思う。

 「自」と「他」に境界はなく、つまり自分のためも他のためも同じことであるという境地に達したのだと思われる。

 

 今回手塚治虫先生の「ブッダ」も改めて読み返してみた。ブッダが悟る場面で以下のようなセリフがある。「木や草や山や川がそこにあるように、人間もこの自然の中にあるからにはちゃんと意味があって生きているのだ。あらゆるものとつながりを持って、そのつながりの中で大事な役目をしている」(講談社手塚治虫漫画全集8巻p.49)

 

④ まとめ
 生老病死について、ただ不安に思うのではなく、また生老病死から逃げるのではなく、ただ自分と人にとって大事と考えられることを実行することが大切なのではないかと思うようになった。

 

 自分のしていることが自分にとって本当に大事なことなのか?それは人にとって大事なことなのか?について、常に考えながら生きていくことが必要なのではないかと考えると、つまらない悩みなどで時間を無駄にすることもなく、自分の役目を果たすことに時間をついやすことが、死ぬ時にも本当に後悔の少ない人生につながるのではないかと考えるようになったことは大きな収穫の一つである。

PHOTOM@すべての生き物がある意味一つ

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近所からみた太陽さんとお空さん