命短し、書けよ、わたし

命短し、書けよ、わたし

 自分は物書きを目指すものである。今回は「書く」ということについて考えてみたい。  
 話したい人は、自分の言う事を聞いて欲しいから話すのだろう。人が「書く」のは、自分に対しての場合もあるかもしれないが、多くの場合は、ある内容について他人に伝えたいからと考えられる。つまり、自分の書いた文章を読んで欲しいという欲求の結果であろう。読んだ人に対して期待するものとは何か。それは「良いもの読んだ」という耳障りの良い感想なのかもしれない。


 翻って自分が読みたいと思う文章とはどのようなものだろうか。
「そんなの自分で考えなさいよ」
「物語の『面白さ』を期待して」
「じゃあ何が面白いの。『面白さ』ってなにさ」と一人芝居のように自問自答してみる。


 ドラマやアニメを見たいと思うのは、擬似体験をしたいからか。自分が地球を救った気になってみたいのか。失敗しないスーパードクターとなって難しい手術を成功させ大金を稼ぎたいのか。ある試合で苦労して監督から「諦めたらそこで試合終了ですよ」と言われたいのか。それとも海賊王になった気分を味わいたいのか。それらも少し違う気がする。

 悲劇が好きな人は、人の不幸を知って、「自分はまだマシだわ」と自分を励ましたいのかもしれない。喜劇が好きな人は、ただただ笑っていたいだけだったということもありそうな話である。


 気になる疑問や自分の感じるモヤモヤを解消するためか、それともストレス発散のためか。話の内容によっては、余計にモヤモヤしたり、ヒヤヒヤさせられたりするケースもあると思う。


 ミステリーが好きな人は、前半いろいろと謎を降り注がれて、「えっ、何々、何がどうなっているの?登場人物の関係は」と気になる点をいっぱい抱えさせられて、「もうそれがはっきりしないとやめられない」と悶々とし、結局「なあんだ。そういうことだったのね」と納得させられて、ようやく安心する。あるいは「最後までスッキリしなかったわ。ああ、時間を無駄にした」と後悔の念にさいなまされたりする。
ということは納得出来ないと気持ち悪いからと読む人もいるのかも知れない。つまり人の納得欲を刺激して、その解消を提供するケースである。


 つれづれなるままに、そんな事を考えながら、今日もわたしは文章を書き続ける。一体「書く」って何。他人に読んでもらう前に、まず自分自身が悶々としてしまう。


 そんな中でふと思った。「書く」ということは、空間はおろか時間をも超える行為であると。我々は先人の書いたものから多くを学んだり、楽しみを提供されたりする。逆に「書く」ことによって後世に様々なことを伝えることが出来る。

 人の一生は長いようで短い。こうしてはいられない。もっともっとよく考え、もっともっと書かなければと改めて思ってしまった。命短し、書けよ、わたし。

 

PHOTOM@目指せ印税長者